「ひとつ、またひとつ」
ガラス張りの扉が動くたび、白い店内の奥へと風が抜ける。
焼きたての香りをまとった空気が巡り出す。
光が差し込み、窓の外に緑が揺れる路面店。
ショーケースのなかで身を寄せるように並ぶマフィンとタルトの姿に、訪れる人の表情がほころぶ。
ご指名を受けひとつずつ取り出されていく、ぽってりとふくよかなマフィン。
ひとつでも美味しいけれど、そのとなりにもうひとつ並べたくなるのは、選ぶ楽しさやだれかの喜ぶ顔を想う広がりだろうか。
あの日、店主の嘉鶴さんがマフィンを焼きはじめたのは、同じマンションの5階の一室。
目には見えないけれど大切なちいさなものをたくさん重ねて歩んでこられた道のりの、はじまりの一音が鳴り響く。
生きる
幼いころから好きだった、ものをつくったり絵を描いたり、なにかを生み出すということ。
お菓子づくりもそのひとつで、周りに喜んでもらえる嬉しさ、そして思い描いたものを自分の手でかたちにできることに心が満たされた。
兵庫県西脇市の酪農を営む家に生まれ、自営業の両親の姿を見て育ったことに由来するのか、大人になるのが楽しみだった。
自分の力で生きていく。
中学生のころにはそんな気持ちを抱いていて、ただ高校の普通科に進学することに意味を見出せなかった。
商業科へ進み、とれるだけの資格を取得。
まだ社会も知らず、本質的な理解というよりは学問の理屈としてだけれど、自分で生きる術を得ることに希望を感じていた。
かたちになる
卒業後は、インテリアの短大に進学するため大阪へ。
想像していた以上に緻密な計算に基づく数字の世界、憧れはいつしか苦手意識へ変わっていく。
進路に迷い、たまたま学内にある求人情報の掲示板で目にした旅行代理店に就職するも、会社のポリシーに納得がいかず1週間で辞めた。
そのことを親にはとても言えず、なんとかしなければという思いで入社したのは、創業から100年も続いていれば間違いない!と選んだ老舗の活版印刷会社。
ちょうど世に広まりはじめたばかりだったMacの代理店でもあった。
配属は総務でパソコンに触れる業務はなかったけれど、インストラクターの生徒役として教わることになった。
遠い世界のものだったパソコンが実際に触ってみるとおもしろく、生徒という役割以外でもグラフィックソフトの使い方を夢中で学んだ。
食事や旅の写真に文を添えて冊子にしたり、頭に描いたものをかたちにできることが楽しくてたまらない。
ここで身につけたスキルが、のちにお店のリーフレットやwebサイトのデザインに活きていく。
生きる術が表現の世界を広げてくれた。
生業
いろんな環境を渡り歩きながらも、ずっと胸のなかにあったのは、自分でなにかやりたいという気持ち。
OL時代に出会った友人の暮らしを楽しむ生き方に惹かれ、食と暮らしを大切にするお店のかたちを思い描いていた。
そのための準備としてカフェに勤めたあと、結婚・出産を経て、イベントで手づくりの焼き菓子販売をはじめる。
あるとき、イベント出店を願い出た嘉鶴さんは、お店を営む友人の言葉にふと立ち止まる。
「生業としてない人とやることはできない」
まっすぐに向き合ってくれた友人の想いに触れ、その通りだ、と胸に刺さった。
生活を立てるために生業としてがんばっている人がいるのに、何の責任もなくちやほやされて乗っかっていた軽率さ。
このままだと自分の生き様に後悔しないだろうか。
大切な気づきを得てイベントへの参加はきっぱりとやめたが、いつの日か自分でお店をできるようにお菓子づくりをする手は止めなかった。
階段の先に
生業だと胸を張って言えるように、自分のお店を持ちたい。
そう覚悟を決めて、物件を探しはじめた。
描いたのは、緑が見える場所、やりたいことに空気感の合う空間、そして幼い子どもたちが自分で来られること。
住まいからも近い緑地公園周辺は、イメージには添うけれどコストが見合わない。
家賃を下げるために妥協することより、その場に感じる「いいな」という感覚を大切にした。
いいところに巡り合えず諦めかけていたとき、現在の物件でうつわ屋を営まれていたミズタマ舎さんを訪れた。
住居マンションだけれど、オーナーの意向で部屋をテナント貸しもしていると耳にする。
エレベーターのない5階の一室、階段を1段1段のぼりドアを開けた。
窓から緑地公園を見下ろす美しい眺めに胸が高鳴る。
ちいさな空間でカフェをするだけのスペースはないけれど、この大きさなら自分ひとりの力でやっていける。
場所を見つけたことで、頭のなかのイメージが一気に動き出す。
家族で店内を改装し、嘉鶴さんが長年描き続けたお店がついにかたちとなった。
ひとりから広がる
主なメニューに選んだのは、マフィンとタルト。
ひとつ生地をつくれば、中身を変えることでいろんなバリエーションができる。
自分ひとりでやるためにメニューは絞り、フルーツや具材で季節感を添えた。
カフェとはいえないけれどコーヒーを飲みながらホッとする時間をもってもらいたくて、4席だけのカウンターを設けた。
決して人目につくわけではないマンションの5階、特に告知もせずはじめたので、最初は緑地公園を眺めるばかりの日が続いた。
次第にSNSの流行にも後押しされて、ひとり、またひとりと足を運んでくれるお客様が増えていく。
そんな嬉しさと同時に、気になることも生まれていった。
長い階段をわざわざのぼってきてくれるお客様への感謝と申し訳なさ。
待ち列ができたときの、住居としてお住まいのかたへの配慮。
たくさんのマフィンを焼き上げるためには手狭になってきた空間。
今後のことを考えはじめたころ、ちょうど1階のうつわ屋・ミズタマ舎さんが移転し物件が空くという報せが届いた。
今より広くなる分家賃もあがるし、もちろんひとりではできなくなる。
不安はあるがチャレンジしようとすぐに手を挙げた。
叶えた夢にワクワクしていたあの日から、7年が経っていた。
5階から1階へ
窓の大きな広い路面店へ。
念願のカフェスペースもゆったりととれるようになったけれど、5階の面影を残すように、4席のカウンターを設けた。
スタッフに恵まれたおかげで、今までひとりではできなかったこともできるようになった。
自分でパッケージデザインをしたクッキー缶をつくったり、料理人の友人を招いて夜の美しい空間を活かした食事会のイベントを開催したり、新しい表現が生まれている。
暮らしの雑貨を販売するとか、地元・西脇でいつかお店をできたらいいなとか、ぼんやりと描くこれからのかたちはある。
でも今はまだ、何年経っても飽きないマフィンを日々焼き続けること。
広がりはじめたばかりの楽しさを味わっていく。
目に見えないもの
akkord(アコルト)とは、ドイツ語で「和音」を意味する。
ひとりで奏でる音もいいけれど、ふたりの音が気持ちよければもっといいし、3人だったらもっと楽しい。
合わさったものの心地よさを、この名に込める。
お店を営む傍ら、自らの子どもたちも巣立った青空ようちえん森の子教室でスタッフとして関わる時間をもつ嘉鶴さん。
ちいさなころの経験は人生のベースになる。
預けるという親の視点だけでなく、子どもたちにとってはじめて触れる社会として、幼少期が大切にされることを願っている。
親も子も慌ただしい世の中。
表情や人のぬくもりなど、言葉以外の要素から感じるものを遮断された時勢。
答えを求めすぎる現代でも、人間は思っている以上に「言葉にできないなにか」からいろんなことを感じ取って生きている。
なにかにのめり込んだり、ゆとりのある時間をもつことの大切さ。
想いはたくさんあるけれど敢えてそれを発信しなくても、笑顔を交わし焼き菓子を食べてもらうだけで、伝わるものがある。
ただ、来てよかったなと思えるお店でありたい。
そこにはきっと自分の心持ちがにじんでいる。
マフィンを見て荒んだ気持ちになる人は少ないと思うからそれでいいかなと笑顔がこぼれる。
風薫るお店のなかで、たしかにその柔らかな音色が聴こえた。
編集後記
ピアノの鍵盤の上で単音を鳴らしていた指先が、ふたつ、みっつと和音を奏ではじめたときに、ぐっと空気が動き出すようなあの感覚。
ひとりで生きると意気込んでいた少女時代から、誰かやなにかと出会って豊さを増してこられた生き様が、その音楽の広がりと重なる。
嘉鶴さんの思考はとてもシンプルで、お話を聞きながら受けた印象は「余韻のいい人」。
ご自身の想いが確かにあって、ちがうことはちがうと率直に伝えてくださるのだけれど、否定された感覚はない。
むしろまっすぐに接してもらえたことで、受け容れてもらえたような心地すらある。
5階という階段ではなかなかハードな立地に足繫く通った多くの人が、焼き菓子の美味しさはもちろん、彼女から漂うなんとも説明しがたい余韻のよさに惹かれていたのではないだろうか。
言葉にすると特定されてしまうことがとても惜しかった。
言葉で表現することを仕事にしながら、こんなにも言葉にしたくないと思ったことはこれまでなかったほどに、伝えたいものが余韻のなかにあった。
あの場所で、空気に触れてマフィンを頬張り、感じ取ってみてほしい。
彼女が日々つくっているものは決してマフィンだけではないけれど、あのぽってりとしたフォルムのなかにはいろんなものが詰まっている気がする。
( 写真 = 安達 嘉鶴 文 = Yuki Takeda )
大阪府豊中市寺内2丁目3-9 グリーンエクセル102
070-8493-4112
焼き菓子 11:30〜17:00
カフェ 13:30〜17:00(LO16:30)
不定休
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