nota

「曖昧さをただよう」


ワインバーと聞いてはじめこそ妙にかしこまってしまうけれど、静謐な空間の中にはどこか温かさが感じられる。
接客から、料理から、うまく言葉で表現できない何かがそこにとどまっている感覚のよう。
ワインはただのアルコール飲料ではなく、そこには歴史や文化を伴った味わい以上に深淵な世界が広がっている。
そんなワインのある風景と、料理を囲み交わされる会話に身を委ねる時間はとても有意義で至福のひととき。
そこにしかない空気感は実際に行ってみないとわからない。
おぼえた感覚の正体を探るようにお話を伺いました。

店主の 澁谷健吾さん

奥行きのある世界

大学進学で香川県高松市から大阪に出てきた。
ずっとスポーツに夢中だったので、将来について考える余裕はあまりなかったが、ものづくりが好きだったから建築を学ぼうと思った。
そんな軽い気持ちは周りの人の本気さに気負ってしまい、そこまで好きにはなれず大学を早々に辞めることに。
高松に戻ることは考えられず、大阪に残るためカフェでアルバイトを始めた。
接客はそんなに好きではなかったけれど、やってみたら意外とできる。
飲食業界の入り口をくぐったことで将来の視界が広がった。
もともとお酒が好きだった澁谷さんは、お酒や食をとりまく空間や、その奥に潜む文化や歴史のある世界観が自分は好きなんだと気づいた。

ワインとの出会い

やりたいことの方向性が見えたので、お酒の中でもこれというものを一本決めようと思った。
本屋さんに足を運び、どのジャンルにしようかと探す。
決め手は単純に書籍の取り扱っている量が多かったから。
ワインを選択した。
またその背景にある奥深さにも惹かれた。
勉強してみるとおもしろかったので、ワインにのめり込んだ澁谷さんはワインバーで働くことに。
ソムリエという職業の人に出会って、さらにその魅力に引き込まれて刺激を受けた。
はじめのお店にいるうちにソムリエの資格を取得して、さらなる成長をしたく、違うお店でも働いてみたいと思うようになってきた。
そんな折に行きつけのワインバーが2店舗目を作るタイミングで、澁谷さんに声がかかった。
そして西天満にある「ヴィネリア・リンコントロ」(現・閉店)というお店で働くことに。
もっと他のいろんなお店で勉強したいと思っていたけれど、周りのスタッフの入れ替わりもあって辞めるに辞められない状況だった。

きっかけは突然に

30代も半ば、独立の意識はあまりなく、それ以上にワインがおもしろかったので、コンクールなどには積極的に参加してソムリエとしての技術を磨いていった。
それでも同じお店に長く在籍していたのもあって、次のあてはなかったけれどなんとなく辞めようと考えていた。
そんなある時、イタリアからワインの生産者が日本に来ていたタイミングで話をする機会があった。
生産者である高齢の男性のその”手”が、澁谷さんに衝撃を与えた。
今でもその時の映像が頭の中に鮮明に残っていると言う。
ゴツゴツとした手、エネルギー溢れる手、一つのものに情熱をささげている姿勢が、誠実さが、その手に集約されていた。
うまく言葉にすることができない感覚、言葉にしてしまえば消えてしまいそうな感覚。
その出会いの一瞬が、はじめて独立したいという気持ちを芽生えさせた。

かさなるタイミング

自分のお店を持ちたい。
そう心に決めたものの、今までそんな素振りを見せずに急に思い立ったものだから家族には反対された。
それでも彼の手を見た時の感覚と覚悟の気持ちの方が勝っていたので、家族にはきちんと説得をして了承を得ることができた。
前職の経験から西天満という街が好きで、その近くで物件探しを始め、料理ができる人も同時に探し始めることに。
以前のお店で一緒に仕事をしたことのあるシェフに何人か候補はいたが、一番信頼できる人は現在notaのシェフである秦野さんだった。
秦野さんはパン職人でもありソムリエでもある方で、その当時は島根県で仕事をしていたが、ダメもとでお願いしてみようと思った。
たまたま年末に大阪で会う約束をしていたその日のお昼に、今の物件に出会いここでやることを決めたタイミングだった。
秦野さんも前職を辞める準備期間が欲しいという条件で快く引き受けてくれた。

シェフの秦野さん

思うようにはいかない

2019年5月、notaを開店。
ワインバーというカテゴリーにはなってしまうが、ワインは出会うための一つのツールに過ぎず、料理、空間、音楽、人、どれかが特別なわけではなく、それぞれにおいてそれぞれの解釈があっていいという気持ちを込めて細部を設えた。
秦野さんとの合流が同年11月だったので、それまでは一人で料理人もソムリエもこなしていた。
そして秦野さんと二人でやっていこうといった矢先にコロナウイルスの流行が始まる。
メディアや雑誌での掲載も緊急事態宣言などとかさなる。
同じ西天満、前職のお店のお客さんの引き継ぎも思ってたよりうまくいかなかった。
悪いタイミングもまたかさなっていった。

職業としてのソムリエ

いろいろな試練を乗り越えてこれからが本当のスタート。
ソムリエの立場としてワインの味やストーリーをもっと知ってほしいので、新しい提案もしていきたいけれど、決して押し付けることなくニュートラルなスタンスではありたいと思っている。
接客やサービスも肩肘張らずにフラットに。
今となっては種類も豊富にあるワインの中で、いかに自分の言葉で文化や背景を表現できるか。
とはいえ解釈は人それぞれなので、言葉に落とし込みすぎずに曖昧なままでそのわからなさを楽しむことも大切にしたい。
料理とワインの相性、何と何を組み合わせるか、どの一場面を切り取るか、その思考プロセスは編集をしているという意識で取り組んでいる。

考えていきたいこと

今までソムリエとしてワインに関われていることは楽しかったが、飲食業界で感じていたのは、決して働く環境がいいとは言えない世界だということ。
これからはまだまだ違和感の残っている業界の体質改善についても考えていきたい。
限られた時間の中で最高のパフォーマンスを出すために、働く環境を整えるために、何をしなければいけないか。
その一歩目として、実際に秦野さんだけに休んでもらう日があって、いつもの料理が提供できない日を数日だけ設けている。
いまだにある悪しき慣習があまり変わっていないのは、自分たちの世代が変える意識を持ってこなかったからではないか。
そんな責任すら感じている。

語源からくる判断軸

お店の名前やロゴマークにはこだわった。
「nota(ノータ)」はイタリア語の”音符”という意味で、名前の「しぶ」という読みに「四分音符」をあてた。
人名漢字である「澁」は、「さんずい」と「とまる」でできている。
常に変化し続ける水のように青のイメージで、流れをつくるようなボーダーラインで。
三本線は、生産者、お店、お客様を意識した。
また足跡の語源でもある特有の「止」という字を、次に進むためにも立ち止まることが大切であることを「点」で表現した。
ブドウの種という意味も込められている。
ある時、娘さんがなぜ難しい方の「澁」という漢字なのか、と聞いてきたことと、常連さまに自分の名前のルーツは知っておいた方がいいと言われたのがきっかけだった。
音を組み合わせるようにワインを編集し、流れを意識した空間づくりや働き方の世代交代、その中で時には立ち止まり心を落ち着かせる場所としてのお店の存在。
自分の名前をほどいてみれば、どれも次の選択をするための貴重な判断軸となっていた。

編集後記

はじめてお料理をいただいた時、作り手の顔は見えなくとも楽しそうに作っていることを食べて感じることができた。
話を聞いてみてなるほど、パンが美味しかったのもとても印象的だった。
働く環境の大切さを同じ立場としても心から同意する。
楽しい気持ちでいられることは美味しい料理や心地よい空間を作る上で、なくてはならない要素だろう。
その環境を整えるためにはお店だけでなくお客様の理解も欠かせない。
一人でも多くの人に食文化の意識が高まることを願いたいと思った。
お話の全体を通してどこか抽象的で曖昧な表現もあったが、感覚としておいておきたいという澁谷さん。
たしかに決めるということは柔軟さを失ってしまう可能性だってある。
具体と抽象のグラデーションの間をふわふわとただよっているイメージがまるでワインの香りのよう。
立ち止まっては進みを繰り返し、流れの中で集めた音符がやがて一つの楽曲になり、それがさらなるお店の物語となっていくだろう。

( 文 = 大野 宗達 )


大阪市北区西天満4-8-3 天野ビル2F
06-6131-2339
営業時間 18:00-24:00
定休日 日曜日

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