小さな西欧料理店 森乃くじら荘

「静けさの中に宿る熱」


6月の夕刻。
鳥のさえずり、蛙の鳴き声、雨降りの後の草木に残る滴もが合わさって、まるで自然が私たちを歓迎してくれているよう。
静寂に吸い込まれるように、濡れた階段を上っていく。
築60年の古民家の一室で提供されるのは、スペイン料理とこだわりのワイン。
静謐な空間から生み出されるコース料理は、決して気取ったものではなく、親しみやすい一皿ばかり。
ほんのり灯りがともるような居心地で、料理とワインだけではなく、空間や時間も含めたマリアージュを楽しめるようにと店主は計らう。

入り口は物語のはじまり
店主の前田照治さん

 

  

働くということ

 

店主である高知県出身の前田さん。
料理の世界に入ったのは中学を卒業してから。
地域の特性上お酒の飲めるお店が多く、実質は中学の時から居酒屋などでアルバイトをして、料理の世界に触れる環境に恵まれていた。
しかし料理が特に好きというわけではなく、お金を稼ぐことが純粋に楽しかった。
中学生で覚えてしまった楽しい感覚は強烈で、高校に進学する意味をわからなくさせた。
何でもいい、ただただ仕事がしたかった。
中学卒業後、担任の先生の紹介で、京都のイタリアンレストランへ住み込みで働くことに決める。
高知から、楽しさ求めて一人発つ、その時若干15歳。

考え尽くされた温度

 

 

特異な青春

 

住み込んだ場所は、共同トイレでお風呂も付いていない寮。
当時の料理の現場は、とにかく知らないことばかりで何もかもが新鮮。
よく怒られた。
暴力的なこともあった。
見習い期間は過酷な環境にあったにもかかわらず、モチベーションとなったのはイタリア料理を極めたいではなく、お金を稼ぐこと。
でもお金を使う機会もないほどに仕事のために朝から晩までを捧げる毎日。
最後にシェフから言い渡されたのは「イタリアに行ってこい」。
この時まだ自分の強い意思ではなく、言われたから行っている。
多感な時期を5年間も京都のイタリアンレストランに捧げた。

ワインにまみれる

 

  

見つけたスペイン

 

お金もある程度貯まっていたので、言われた通りイタリアに行き、現地のレストランで働いた。
イタリアでの生活も2年が経ち、そろそろ日本に帰ろうかと、スペインを旅している途中で今までに味わったことのない引っかかりを感じた。
世界の最先端を行く科学や数式で導かれるような料理と、母の味を大事にしているような素朴であたたかみのある料理とのギャップ。
料理の変幻自在さ。
とても感覚的だが人と食事の在り方に関心が湧いた。
その感覚が何かをもっと知りたいと思った。
スペインに行ってみたい。
幸い当時のスペインは好景気で働ける環境が整っていたので、日本に帰らずそのままスペインのレストランで働くことにした。
いくつか働いたお店のうちの一つで、全部自分たちで最初から最後まで携わる精神に触れた時は、特に心が動いた。
野菜はもちろん、酪農やワイン、果樹園から採れる果物で作るジュース、お皿に至るまで。
お酒好きの前田さん、その中でもワインの魅力にはまり、もっと学問的に勉強がしたいと思うようになり日本に帰ろうと決める。
気づけば7年間をスペインで過ごした。
料理やワインの技術だけでなく、文化や歴史、土地に宿る精神などを全身で体感した経験はかけがえのない財産になった。

言わずもがなのパエリア

 

 

強い意志で選んだ道

 

日本に帰ってきて目指したのは大学に行くこと。
料理の仕事をしながら受験勉強をした。努力の成果が実を結び、東京農業大学に合格。
ワインと深い繋がりのある醸造科学を中心に学んだ。
お昼は大学で勉強をして、夜はスペインレストランで働くという毎日。
疲れすぎたのか24時間寝続けたことによって、丸一日分が記憶にないこともあったという。
この時期が人生の中で一番大変だったと振り返る。

丁寧と繊細

 

  

濃い経験から生まれる独立

 

大学を卒業後は、ご縁があって大阪福島区のスペインバルの立ち上げを任されることに。
自分の表現することにお客様の支持が集まり、自信もついてきた。
常連様がお店をしたら通うよ、という声にも背中を押され、同じ福島区にスペイン料理をコースで楽しめるお店を構えることに。
大学を卒業してから翌年に独立を果たした。

感じる風土

 

 

静かな場所へ

 

野心的な気持ちで始めたお店も、次第に違和感を持つようになり、郊外でやっていくことに魅力を感じるようになってきた。
常連様の紹介もあって、独立から1年経たずして今の場所(西宮市生瀬)に移転することに。
元は「くじら雲」というアトリエだった古民家に、自分が描き始めていた理想図がうまくフィットした。
料理やワインだけでなく、静かに過ごせる空間や時間も含めて自己表現をするということ。
生い茂る木々の中で過ごす時間はまるで森の中にいるよう。
自然とお店の名前は「森乃くじら荘」になった。

静謐な空間

  

 

表現の段階

 

始めは一人で全部の作業をこなしていたが、一人ではどうしても伝えきれないことがあった。
途中から接客経験のある奥様にサービスを手伝ってもらうことでお店が円滑に周り始める。
もっと自分の表現したいところに辿り着きたいという思いは次第に強くなっていく。
普通のソムリエよりも難易度の高いシニアソムリエの資格を持つ前田さんは、料理とお酒は運命共同体と語るほど、スペインでの経験や、大学での学びも含めてワインに深い造詣を示す。
スペインワインの認知を上げたいとワインショップの併設も考えていて、いずれは生まれ育った高知へ帰り自分でワインを作りたいと語る。
(ワインとは広義の意味で、ブドウ以外の果実で作ったものも含まれる)
自然災害が多くなっていく中で、ワイン以外でも食の部分で自立できるように畑や水田を持ちたいと目標を掲げる。今の場所は、目標に向かうための地盤を固める場所であり、自信を深める場所だと位置付けている。

叶えるために

 

 

料理を通して

 

料理におけるコース料理とは、まさに作り手の考えが反映されるひとつの作品。
必ずコース料理に入れるというイワシのマリネは、スペイン人もよく食べる大衆的な食材。
同じイワシでも大きさや脂のノリが日々違うからこそ、自分自身の基準として他の料理とのバランスを図っている。
日本人にも合うようなスペイン料理の魅力を伝え、存在感を高めることもコース料理の中で表現していく。
野菜へのこだわりも強く、大阪は能勢にある、女性が一人で営む「晴苗農園」さんまで足を運び、実際に会ってお話を聞き、仕入れをする。
人を介した心のやりとりを交わしている分、必然的に生産者の想いもお皿の上で継承されていく。その季節、その瞬間の味わいを見せる野菜の魅力は、コース料理のメインディッシュはサラダ、というほど自慢の一皿。
こだわりを尽くしたコースで味わうスペイン料理を通して、心を豊かにする食がこんなにも身近にあることを知ってほしい。
そのための入り口になれればと前田さんは願う。

指標となるイワシのマリネ
畑のテラリウム(晴苗農園さんのお野菜)

 

 

編集後記

長い海外生活が前田さんの人生の指針に与えた影響はきっと大きい。
何を成し遂げたかではなくて、生きた時間をどの環境で過ごしたか。
表面的な料理の技術はもちろん、スペインの文化や精神性を体得しているように思えました。
いずれ叶えたいという、自分でいちから手がけたワインと料理のマリアージュを堪能できる日が来るならば、かけがえのない贅沢なひとときを過ごせることでしょう。
自分の信念を曲げず確実に目標をクリアしてきた前田さん、夢の景色もそう遠くはないと思います。

取材当日は農家さんからの仕入れの帰りで、晴苗農園さんの野菜を味見させていただきました。
「ただただ美味しいんです」と目を輝かせながら連呼する様子を見て、心の底から湧いてくる土地や野菜に対する深い愛情を感じることができました。

( 写真 = 前田 照治   文 = 大野 宗達 )


西欧料理店

< 御予約・お問い合わせ ※DM不可 >
全8席、コース料理のみ
TEL 0797-81-7700
営業日 金.土.日.月

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