浅井食堂

小さな街から発信できること


世界遺産として知られる下鴨神社から少し歩いた住宅街の中にひっそりと佇む赤煉瓦の建物。
店内を見渡せば地元の子供たちの描いた絵や常連客からの贈りものが所狭しと並び、オーナーシェフの浅井さんとお客様によるたわいもない会話から生まれる笑い声と笑顔で溢れている。
それだけで何ともあたたかい気持ちで満たされる。

料理人としての枠に囚われず、常に新しいことに挑戦し発信し続けたいという浅井幸雄さん。
地元の人たちに愛される小さな洋食屋に秘められた想いとは。

店主の浅井幸雄さん

 

 

探究心から生まれたもの

 

「何で木はこんな香りがするのだろう?」公園の木に抱きついてみる浅井少年。
小さな頃から「何でだろう?」の探究心は凄まじいものだった。
疑問が生まれる度に自ら調べ、身近の大人たちに質問し、とにかく突き詰めて回答を導き出し自分で納得しないと気が済まなかった。
小学生の頃、近所のコンビニで”美味しんぼ”という漫画と出会う。
お年玉で背伸びをして買ったのは1巻ではなく15巻。
この1冊がのちの人生を大きく変えることとなる。
まだ読めない漢字も多かったが、意味が分からないなりにも料理の話であることは理解できた。
続きが気になって続刊を買ううちに、次第に食の魅力に惹かれていった。
漫画の中に登場する料亭を実際に見てみたい。
知らない食材があれば市場に行って実際に見てみたい。
京都はモデルとなってる場所も多かったので、好奇心から休みの日はもっぱら自転車で京都中を駆け巡った。
食べたいというよりも作ってみたいと思った。
興味が湧いたのは、食材が料理に変わっていく技術。
自分で作ることで自らの答えを導き出せる楽しさがそこにあった。
食は生活の一部として、身近なところで答えを見つけられるのがおもしろい。
浅井少年は小学4年生で料理人になることを決めた。

美味しんぼが描く世界観に圧倒された

 

 

できる時にできることをやる

 

高校生になっても夢は変わらなかった。
料理人になるという目標への道筋として農学や化学系の大学進学も考えたが、学力不足と4年という時間は長すぎると考え直した。
高校卒業後にお店に弟子入りし修行することも考えたが、まずは食に関する知識をきちんと学ぶため料理専門学校への進学を決めた。
当初の予定では栄養学コースで2年、調理師コースで1年学ぶという3年計画だった。
しかし栄養学に関しては高校の家庭科の反復内容ばかりでおもしろみを感じることができず、2年を費やすのはもったいなくて入学して1ヵ月で辞めてしまった。
調理師コースだけは行こうと翌年4月からの編入手続きをすることに。
編入までの空いた10ヶ月間、とにかく食に関連するアルバイトをたくさんした。
それらの経験は、20年以上経った今でも自分にとって活きる財産になっているという。

赤煉瓦が目印のレトロな一角

 

 

激動の中で得た経験

 

専門学校を卒業してからは、調理師コース時代のアルバイトのひとつであったハウスヨーク(現在は閉店)という老舗から声をかけられて正社員として働いた。
20歳で就職して2年後には当時の料理長が急遽辞めてしまい、アルバイトの時の信頼もあって23歳でいきなり料理長となった。
それからの2年間は地獄のような日々だったと振り返る。
経験もまだまだ浅く、当時は訳も分からずとにかく必死だった。
睡眠時間も必然的に短くなり、栄養失調も2回ほど経験した。
お店の歴史をここで止めるわけにはいかない、何より食事を食べに来てくれるお客さんの顔を見ると逃げるわけにはいかなかった。
周りに教えてくれる人のいない怖さから自ら行動し、とにかく今の自分ができることをしようと決めた。
同業者に意見を求めようとするも、料理人としてのプライドからなのか敵とみなされ、なかなか助言はもらえなかった。
足りない経験と知識を補ってくれたのは、本だった。
とにかく本からたくさんのことを学び、料理に取り入れることで、今まで抱えていた「不安」が「おもしろい」へと変化していた。
料理長は料理をするだけの仕事でもない。
アルバイトのシフト作成やスタッフの管理、食の流通業者とのやりとりなどあらゆる仕事を任され、気づけばレストランの経営にまで片足を突っ込む形となっていた。
料理に割く時間は減ったが、食の流通や経営の流れについて自然と学ぶことができた。
また人を育てるという楽しさを知り、自分のやりたいことをやるにはスタッフとの信頼関係が大切であると実感し、人材育成にも積極的に取り組んだ。
一人でできることには限界がある。
いかにお店全体のことを考えて現場を円滑に回していくか。
そのためにはスタッフそれぞれの得意を理解した上で、適材適所を見極める。
その結果が数字となって表れたので、ここでの経験が後の大きな自信へとつながっていった。

好評の特製ハンバーグ

 

 

譲れない直感

 

15年の月日が流れ、お店を継承してほしいというオーナーの誘いもあったけれど、35歳には独立すると前々から決めていた。
もっと自分の表現で食を発信していきたい。
3世代が喜べて、思い出に残るような継承されていく料理を作りたい。
その想いを軸に考えると、自然と”洋食”と”地元”という組み合わせにたどり着いた。
物件選びはご縁があった。
退職を申し出てまもなく、休みの日に地元の喫茶店に立ち寄った時のこと。
ふと店内の閉店を知らせる張り紙を目にする。
ここでやってみたい。
直感でそう感じた浅井さんはすぐに喫茶店のオーナーに直談判。
オーナー自身の経験から飲食の厳しさを知っていたからこその配慮なのか、飲食で貸すことは考えていないと初めは断られた。
どうしても諦めきれずその後も何度かお願いをしたが結果は同じだった。
それでも何かが引っかかる。
オーナーの胸の中にあたたかさがあることは確かだ。
4回目の直談判、これで最後にしようと塩を投げられる覚悟で行くと遂にオーナーから、やるなら成功してほしい、と承諾をもらうことができた。
ハウスヨークでの15年の勤務に幕を閉じ、予定通り35歳で自身の店である「浅井食堂」をオープンする運びとなる。

昔ながらの喫茶店の面影がある店内

 

 

地元のちから

 
ハウスヨークでの15年間、休む間もなく頑張っていたので今後はしばらくのんびり働くつもりだった。
店内の改装工事に関しても、工事の職人さんにゆっくり作業してくれて構わないと伝えていたほど。
しかし予定よりゆっくり行っていた工事が、地元の人たちの関心を引き寄せ期待を膨らませることになった。
晴れてお店がオープンすれば、想像以上の客足。
最初の半年は倒れるかと思うほど忙しく、日々ついていくのにやっとだった。
ここでハウスヨークでの経験を思い出す。
自分のやりたいことをやる時間確保のためには、うまく店が回るようにするための仕組み作りと人材を集める必要があった。
仕組み作りに関しては、どんな人でも作れるように作り方やプロセスを工夫した。
人材に関しては、地元のネットワークを活用し、信頼できる人を雇った。
前職の経験を生かし、下処理が得意な人、麺作りが得意な人、とにかく各々に得意なことをお願いした。
スタッフ自身、自分の得意を続けることで士気もスキルも上がり、人に教えることでまた次へと継承される。
自然と人材育成の仕組みが出来上がった。
また食材確保や流通の流れも、私利私欲のためではなく中間業者にも還元が出るよう大元に掛け合い、うまく循環するようにした。
予想以上に初期から軌道に乗ることができた。

地元の人たちの雇用もつくる

 

 

発信していくための様々な挑戦

 

店の仕組み作りにより自身の時間の確保ができるようになり「食を通して何か発信し続けたい」という目標のため様々な挑戦をしている浅井さん。
ご縁がきっかけで、飛行機での機内食のおやつとして普段お店で出しているワッフルを提供してくれないかと声がかかった。
商品製造に伴い、お店だけでは間に合わないので、設備を整えるために店から少し離れた自宅を改装した。

また飲食店として開業・独立希望の人たちの夢を叶えるサポートも積極的に行った。
神戸市にある人と場所をつなぐシェアキッチンサービス「ヒトトバ」。
ここでは将来お店を開きたいと考える人たちが曜日や時間帯で各々出店している。
2018年には月曜の洋食担当として、飲食経験のなかった人でも独立できるよう、料理や店の運営の仕方などを指導した。

オープン当初から雇用の仕組み作りにも精力を注いでいる。
浅井食堂のスタッフは地元ネットワークを駆使し、ほぼ地元の方々を採用している。
「スタッフの中には友人の母親たちもいます。僕、ここに母親がたくさんいるんですよ。」と笑いながら話す浅井さん。
お客様である地元の人たちにとって、誰が作ったかという顔が見える料理は価値が大きい。
スタッフ一人一人のブランド価値を高めることが口コミとなり、地元の友人や家族がお店へと食べにきてくれる。
自然と地元の人たちへの広告へと繋がっているのだ。
地元ならではの雇用スタイルとして今でもこのような形で発信を続けている。

そんな地元愛が強い浅井さんは年に1度、近くの小学校で小学生向けに職業体験学習を通しての講義も行っている。
働くことや人と協力することの大切さなどを直接伝えることで子供たちの将来に少しでも役立てばという気持ちで取り組んでいる。
決して子供扱いをするわけではなく、あくまで同じ大人目線で話しているという。
子供も真剣に応えてくれ、大人顔負けの質疑応答も起こるそう。

名物の下鴨ワッフル

 

 

時代への適応

 

コロナ禍ではお弁当産業にも乗り出した。
技術は持っているがコロナ禍で流通ルートの減ってしまった同業者たち数店舗と一緒にレシピを持ち寄り、一つのお店で和洋折衷のお弁当を取り扱うお弁当村の立ち上げに携わった。
各々のお店のファンが集まることで自分のお店の存在を知ってもらえる広告効果もあって、気付けばお弁当村は3店舗にまで増えた。
オープン当初から考えていたデミグラスソースのレトルト商品化も間もなく完成する。
誰でも簡単に家で美味しいデミグラスソースを使った料理ができるようにという気持ちが込められている。
地元京都の銀閣寺大西というお肉屋さんとスーパー小売のMGとの共同で作り上げたものだ。
商品パッケージに印刷されているバーコードを読み取ると、ミャンマーの難民キャンプへ売り上げから寄付できる参加型の社会貢献にもつながるように仕組みを整えた。
社会にあったニーズを探り、今できることは何かと常に考え発信している。

コロッケだけを作りにくるスタッフさんがいたり

 

 

小さな街の洋食屋に何ができるか

 

料理人としての気持ちも大事だが、決して頑固にならずお客様に喜んでもらえることを信条としている。
そのためにスタッフの特性に合った仕事を振ることで、わずかながらでも地域の雇用に貢献したり、レシピや動線を確立させることで自分がいなくても回る仕組み作り、次世代の料理業界を担う人の育成であったり、できることはまだまだたくさんある。
「いつも明日死んでもいいと思ってやっています。悔いなく毎日どう生きるか。自分がやっている仕事に向き合い、自分の人生として満足できるかが自分にとっては気持ちがいいです。経験を通して作った仕組み作りをもっと世間に発信していきたい。これからが本当に楽しみです!」と語る浅井さん。

そして様々な活動をする中でも、営業日にお店の厨房に立つことを欠かさない。

 

 

編集後記

 

浅井食堂といえば、ハンバーグに並んで人気なのがデザートの下鴨ワッフル。
これはハウスヨークから引き継がれた思い出の味でもあります。
ワッフルの上にこれでもかと盛られているクリームは、ふんわり軽やかなエスプーマ。
そのエスプーマとの出会いが遡ること2004年。
ハワイ旅行に出かけた際に立ち寄ったスターバックスで、フラペチーノの上にのっていたフワフワのクリームを見て衝撃が走ったそう。
お店でも使いたいとその興奮を持ち帰り問い合わせてみると、当時はまだエスプーマの成分であった亜酸化窒素の使用許可が日本では下りていませんでした。
2年後に許可が下りるまで待ち侘びた結果、すぐに導入したことでハウスヨークが関西でのエスプーマ取引先の第1号となったそうです。
今の下鴨ワッフルの原点はハワイでの「あれは何?」から繋がったご縁であり、浅井さんの探究心が生み出した偶然の産物なのです。
そんなエピソードを聞いてから改めて頂く下鴨ワッフルは何とも更に素敵に見えます。
子供時代から変わらず「何でだろう」を大切にして向き合ってきた結果が、たくさんの発信を生み出し、今の浅井食堂を作っているのだと感じました。
飽くなき探究心と行動力で自身も楽しみながら仕事をしている姿はとても眩しく、惹かれるものがあります。
常に明るく楽しいお人柄もまた浅井食堂の魅力につながっています。
これから先も変わらず、いい意味で「何でだろうを大切にする永遠の少年」でい続けてほしいです。
浅井さんの満面の笑顔と小さな街の洋食店には、今の時代を生き抜く飲食店のあるべき姿が詰まっているのではないでしょうか。

( 写真 = 大野 宗達   文 = Tomoka Miyata )


洋食レストラン


TEL 075-706-5706
ランチ 11:00 – 15:00 ( L.O. 14:00)
ディナー 17:30 – 22:00 ( L.O. 21:00)
定休日  月・火曜日(月1回日曜日不定休)

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